2016年10月05日

美空ひばり(愛燦燦)

美空ひばり


横浜市磯子区滝頭出身の歌手、女優。

12歳でデビューして「天才少女歌手」と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで活躍し自他共に「歌謡界の女王」と認める存在となった。

昭和の歌謡界を代表する歌手・女優の1人であり、女性として史上初の国民栄誉賞を受賞した。

終戦間もない1945年、私財を投じて自前の「青空楽団」を設立。

近所の公民館・銭湯に舞台を作り、ひばり8歳のときに「美空」和枝(母の提案)の名で初舞台を踏む。

1946年、NHK『素人のど自慢』に出場し、予選で『リンゴの唄』を歌いひばり母子は合格を確信したが鐘が鳴らない。

審査員は「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由で悩んだ挙句、合格にできないと告げた。

横浜市磯子区の杉田劇場で初舞台を踏む。

翌年の春、横浜で行われたのど自慢大会終了後、ひばり母子は審査員の古賀政男のもとに駆けつけて「どうか娘の歌を聴いてください!」と懇願し、ひばりはアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌った。

古賀はその子供とは思えない才能、度胸、理解力に感心し「きみはもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている」、「歌手になるなら頑張りなさい」とエールを送った。


1949年1月、日劇のレビュー『ラブ・パレード』で笠置の『セコハン娘』、『東京ブギウギ』を歌い踊る子供が面白がられ、同年3月には東横映画『のど自慢狂時代』でブギウギを歌う少女として映画初出演。

8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手としてB面であるが11歳で正式にレコードデビューを果たした。

続いて12歳で映画主演を果たした『悲しき口笛』(松竹)が大ヒット、同主題歌も45万枚売れ(当時の史上最高記録)国民的認知度を得た。

この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は小さいときのひばりを代表するものとしてよく取り上げられる。


愛燦燦


あいさんさんは、1986年5月29日に発売された美空ひばりのシングル

作詞・作曲にはシンガーソングライターの小椋佳が起用された。

本楽曲が製作されることになったきっかけは、「家族愛」をテーマに製作され、ハワイで撮影された『味の素』のCM映像のバック音楽をホリプロの若き映像プロデューサーだった岩上昭彦がひばりに歌唱させることを希望したことである。

CMソングの製作者は最初から小椋にすることを考えていた。

歌手はホリプロの所属歌手を検討したがイメージに合わず、岩上は「家族愛」のテーマに最も合致していると思われるひばりを希望した。

当時のひばりは「歌謡界の女王」とも呼ばれていた芸能界の大御所であり、無謀とも言えるオファーであったが、ひばりがこのオファーを受諾したため、完成したのが本楽曲である。

CMの映像を見た小椋がCM曲として最初に作詞・作曲した歌はテンポも軽やかな「轍(わだち)」という曲だった。

しかし、コロムビアの担当ディレクターや広告主である味の素の「包容力がほしい」という意向によって、小椋にCM曲の取替えが伝えられた。

そして、小椋が製作したのが「愛燦燦」である。

放映当初は画面にクレジットされずいわば覆面シンガー扱いだったが、声質などからすぐ承知され、発表ともに画面上でもクレジットされるようになった。

CMが作品として認められると共に彼女の歌唱力を示すエピソードである。

wikipedia

私が美空ひばりの曲で一番印象に残っているのが、この動画の衣装のような「真赤な太陽」です。それまでの美空ひばりの曲とは違い、グループ・サウンズ調の曲で、ミニスカートで踊りながら歌ってました。子供ながら衝撃を覚えた記憶があります。

そしてこの(愛燦燦)この曲はもう名曲です。聴いていて実に心地よいです。美空ひばりの声は万人を魅了する声であると専門家がTVで言っていたのを聞いたことがあります。




愛燦燦 (MEG-CD)



小椋佳の(愛燦燦)


青木隆治の(愛燦燦)

posted by aritama at 14:33| Comment(0) | 美空ひばり