2018年08月15日

美川憲一(柳ヶ瀬ブルース)

美川憲一


長野県諏訪市出身の演歌歌手、俳優、タレント、シャンソン歌手である。

古賀政男の指導を受け、1965年、「だけどだけどだけど」で歌手デビュー。

デビューは青春歌謡路線であり、当時は男装・美少年キャラクターであった。

芸名の「美川」は岐阜県を流れる木曽川・揖斐川・長良川の3つの美しい川にちなむ。

美川自身は長野県出身で2歳から東京に住んでおり岐阜とは何の縁もなかったが、デビュー当時のプロダクションの担当者が岐阜出身だったことから岐阜に由来する芸名を付けられた。

「川のように息が長く、美しい歌手であるように」という意味が込められている。

1966年、北海道出身で、柳ヶ瀬で流しをしていた宇佐英雄が作詞・作曲した「柳ヶ瀬ブルース」が120万枚を売り上げるヒット。

青春歌謡路線で売出し中の美川にとって演歌である「柳ヶ瀬ブルース」を歌う事にかなりの抵抗があった。

レコーディングの話が来た際、レコード会社に「歌いたくない」と断ったところ「歌えないのならお前はクビだ」と言われてしまう。

「クビになるのならやるだけやってみよう」「この曲が売れなければ辞めよう」と詞の内容も理解しないまま嫌々歌ったという。

この曲のヒットにより美川はムード歌謡・演歌路線へとシフトを変えていくこととなる。

また「柳ヶ瀬ブルース」は映画化され、美川にとって映画初出演の作品となった。


柳ヶ瀬ブルース


美川憲一が1966年4月1日に発売した、3作目のシングル盤レコードである。

作詞・作曲:宇佐英雄

日本クラウンは曲の舞台となった地元柳ヶ瀬とタイアップし、この曲が柳ヶ瀬で流行っているとして、スポーツ新聞や週刊誌の記者を取材ツアーに招待、地元でも記者の飲食費を負担するとともに、当日はどこに行ってもこの曲を流し、歌うようにしておいた。

このタイアップの結果、この曲が120万枚を超える大ヒット曲となって柳ヶ瀬の地名が全国に知られるようになるとともに、美川自身もスター歌手としての地位を確立することとなる。

いわゆる「ご当地ソング」という言葉は、当曲が評判になり始めた頃クラウンレコードの宣伝担当者が使い出して広まったとされる。

wikipedia

若い頃の美川憲一はアイドルのような顔をしていますが、声は低音ですね、低音だったことで演歌に向いているとなったのかもしれないですね

岐阜県の柳ヶ瀬は、60年代から80年代までは、にぎやかな繁華街だったようで、飲み屋さんも多かったそうです。





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2018年07月29日

バーブ佐竹(女心の唄)

バーブ佐竹


北海道釧路市出身の演歌歌手

本名は佐武 豊(さたけ ゆたか)

芸名は、本名の「佐武」を「さぶ」と読み間違えられることが多かったため、正しい読みの「さたけ」に「竹」を充て、竹を英訳した「バンブー (bamboo)」から「バーブ」を冠したものである。

22歳の時、歌手を志して上京。

流しのギター弾き・ナイトクラブの専属歌手など長い下積み生活を経て、1964年『女心の唄』でレコードデビュー。

250万枚を超える大ヒットとなり、翌1965年の第7回日本レコード大賞新人賞を受賞。

NHK紅白歌合戦にも同年から4年連続で出場した。

独特の低音の歌声は「バーブ節」と呼ばれ、その後も『ネオン川』、『カクテル小唄』などがヒット。

また、特徴的な顔立ちを表した「顔じゃないよ、心だよ」のキャッチフレーズは流行語となり、牧伸二、菅原洋一らと「モスラ会」を結成して話題になったこともある。


女心の唄


1964年12月にバーブ佐竹がリリースしたデビューシングル

バーブ佐竹の代表曲である。

作詞:山北由希夫 / 作曲:吉田矢健治

本作を手にするまでのバーブは、北海道のネオン街からスタートした流しの歌手で、のちに東京に移住し、バーで歌っていた。

本シングルは200万枚以上を売り上げて1965年の大ヒット曲となり、第7回日本レコード大賞で、新人賞を獲得した。

wikipedia

久々にこの曲を聴いて懐かしいと思いました。私は子供でしたが、この曲のヒットはよく覚えています。200万枚以上の売り上げですので、その当時はTVで頻繁に流れたと思います。

バーブ佐竹は、流しだったとのことで、ギターを弾きながら歌うデビュー当時の動画がありました。貴重ですね







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